Tragedy

〜 壊れゆく世界へ 〜

流れるモノ




 戦場を駆ける一頭の兵器。犬のようなその胴体を使い、頭を低くして通り過ぎるべく走る。だが、人間も【異界人】もその兵器を止めようとする。人間は仲間を守るため、【異界人】は暴走する兵器を止めるため。双方から攻撃を受ける兵器の陰で兵器に守られているお姫様。僅かに残された装甲が銃弾を弾く。そのたびに、小さな悲鳴を上げる。

「無理、しないで」

 お姫様――アリスが言う。騎士はそれに答えるかのように、瞳を光らせる。返事は言わなかった。
 駆ける駆ける、一頭の騎士。戦場を駆け抜ける。後方には人間たちの軍勢。彼らは血眼になって、騎士を攻撃していた。仲間を守るので必死なのだ。アリスはそれを見て、唇を噛み締める。地下でのうのうと暮らす人間のために、どれだけの血が流されているのだろう。彼らは何も知らない。地下の人間も。互いがどんな生き方をしているのか。その間にいるのがアリスたちなのだ。駆ける駆ける騎士。前方に【異界人】たちの拠点が見えてきた。アリスは息を呑む。

「速度を上げて、一気に跳び越えて」

 聞こえているかは分からないが、言わずにはいられなかった。アリスは騎士の主人であり、飼い主のようなものだ。だから、言ってしまう。犬には聞こえていた。機械であり兵器である彼にとって、それは造作もないことだった。
 指示された通り、犬――オンワは速度を上げた。頭を更に低くして、尾を立てる。【異界人】たちもオンワがこちらに突っ込んでくるのを察したのか、通常よりも大きな兵器を用意しだした。耐えられるだろうか、とアリスが考えていると、オンワがアリスを安心させるためにビビビ、と短く鳴いた。大丈夫、と言っているかのようだった。それを聞いて、アリスは口元を緩めた。大丈夫、オンワが言っているんだから。自分に言い聞かせるように、復唱した。
 その直後、オンワは跳んだ。
 全ての時間がゆっくりになった。そう感じただけかもしれないが、体感時間は確かにゆっくりになり、アリスには世界が見えた気がした。飛んでくる銃弾も、眼下にいる【異界人】たちの顔も、全てが見えた。だが、それを終わらせる音は、とても小さな音だった。
 カツン、と言う銃弾がオンワの装甲に当たり、弾かれる音。音も消えていた世界から、音が戻り時間が戻り、全てが戻った。
 【異界人】たちの怒声が耳に入ってくる。オンワの体で弾かれる銃弾の音がする。これで大丈夫、そう思っていたアリスだったが、どかん、という大きな音が地上から聞こえた直後、オンワの体が激しく揺れた。【異界人】たちの兵器の弾丸が、オンワの胴体に直撃したのだ。オンワの瞳が黒く光る。姿勢が崩され、アリスは装甲の陰から振り落とされそうになった。パイプの一つを掴み、なんとか耐える。オンワもすぐに体勢を立て直し、着地した。だが、体が負ったダメージは大きいようで、着地した瞬間よろけた。

「オンワ!」

 アリスが名前を呼ぶ。返事はない。よろける体で、オンワは走ろうとする。だが、一歩ずつ歩いて進むのが精一杯だった。アリスは元の装甲の陰に身を潜めると、オンワの状態を示すパネルを出す。胴体の右側と右後ろ足に深刻なダメージを受けていた。走ることは不可能、自己修復機能は修理されていないため、直すこともできない。このままでは、とアリスは焦った。幸いにも【異界人】の拠点から離れたところに着地することができた。奴らがこちらに着くまでの時間は稼げる。オンワは一歩ずつ、歩き始めた。だが、その足取りは重い。

「無理しないで……」

 最悪の場合、別れて逃げればいい。オンワは戦争兵器で、【異界人】たちの作ったもの。攻撃されていたのは暴走していると判断されたからであって、暴走が収まったと分かれば修理される。その隙にアリスが一人で逃げ、後でオンワと合流できれば――。
 そこまで考えて、アリスは思考を止めた。一人で逃げられるだろうか、今までオンワに頼り切っていたのに。オンワが修理されて、自我を消されてしまったらどうするのか。記憶媒体だって、【異界人】たちに見られてしまうだろう。人間と仲良くしていた兵器を、奴らはそのままにしておくのだろうか。いくら記憶を消したところで、自我が残っていれば記憶を取り戻してしまう可能性だってある。そうなれば、オンワは廃棄されてしまう。今度こそ、二度と修理できないくらい、ぼろぼろに。

「どう、しよう」

 思考が停止する。停止した思考で、アリスは必死になって考えた。だが、いくら考えても答えは出てこない。それに苛立っていると、オンワが鳴いた。ビビビビビビビビビ、と少し長めに。そこでアリスは、はっとした。オンワはアリスを連れて逃げるため、懸命に一歩ずつ進んでいた。その姿を見て、自分は今何を考えていたのか、と自分の愚かさに気づいた。二人で逃げなければ意味はない。そのことに気づかされたアリスは、ため息をついた。愚かな自分を捨て去るために。

「一緒に行こう、オンワ。ずっと、ずっと一緒に」

 ビービービビビビビービビビビー。

 嬉しそうにオンワは声を上げる。アリスは思わず笑みをこぼす。

「さぁ、逃げよう」

 アリスが顔を上げて、前を見た。目の前には太陽がきらきらと輝いていた。その姿に、アリスは思わず装甲の陰から出て、目を細める。

「オンワ」

 突然、背後から発砲音がした。何かはアリスの胸を貫いた。どくどくと、胸に空いた小さな穴から血が流れる。たらたらと、血が滴り落ちる。じわりと、服に染み込んでいく。

「あ……あ……」

 声が漏れる。何が言いたい訳でもない。

 ビービビビービービービービービービービービービー。

 絶叫するかのように、オンワの声が辺りに響いた。
 心配しないで、とアリスが口にしようとしたが言えなかった。重くなる体で立っていることさえできなくなる。バランスの取りにくいオンワの頭の上から、アリスは簡単に落ちてしまう。落ちているとき、体を捻り、アリスは自らに何が起こったのか理解した。背後から迫りつつある【異界人】が、アリスに銃口を向け、撃ったのだ。それがアリスの胸を貫いた。落ちていくアリスを、オンワが両の前足で受け止める。
 自らの腕の中で、血を流し続けるアリス。オンワの耳に、【異界人】がやった、やったぞ、と歓声を上げている声が届いた。

 ――何が、やった、だ。この人を傷つけておいて。
 許さない。許さない。


 オンワは動かない体でその場に腰を下ろした。尻尾はゆらゆらと動かすことができる。それを知ったオンワは、尻尾で【異界人】たちを薙ぎ払った。まだ暴走は止まってない、などと【異界人】たちの喚く声に耳を貸さず、オンワはアリスの顔に己の顔を近づける。
 鼻の先端に取り付けられた嗅覚センサーが、血の匂いを察知する。そして、この血の量では助からないと、脳内信号が告げていた。オンワはアリスの顔に、己の顔を当てた。アリスは薄っすらと目を開け、嬉しそうな顔でオンワを見つめた。

「あんたは、やっぱり冷たくて気持ちいいよ」

 痛みに耐えながら、アリスは笑った。助からない、脳内信号を認めたくなかった。でも、アリスは瀕死の状態で、戦争兵器である自分に彼女を助けることはできないと、オンワは分かっていた。

「あれ……雨?」

 アリスが呟く。オンワは空を見上げたが、雨など降っていない。自身のセンサーも、雨は降っていないと察知していた。ならば、アリスの顔にかかった雫はどこから降ってきたものなのか。オンワは不思議に思った。

「なんだぁ、オンワ、泣いてるんだ」

 と、アリスが言った。
 オンワは、アリスを片足で持つと、開いた手で己の目に触れた。アリスのような人間や【異界人】の目と違って、触れても痛みのない目。そこから、何故か涙が零れていた。
 涙腺などないはずなのに。涙を流すはずがないのに。己の目からは、涙が流れ続けていた。

「よしよし、泣かないで、オンワ」

 アリスが、オンワに手を伸ばした。オンワも、撫でてもらおうとアリスの手に顔を近づける。――だが、あと少しのところで、アリスの手は力を無くし、落ちてしまった。オンワは咄嗟にアリスを見る。

「もう、力、でない、や……オンワ、ありがとう。大好きだよ。あたしの、騎士さま」

 ニッコリと笑って、アリスは動かなくなった。オンワの目から零れた涙がアリスの赤と混ざり合って朱色に変わる。
 アリスが、死んだ。アリスの目からも、涙が零れていることにオンワは気付いた。
 どうしようもない悲しみに暮れた大きな犬は、主人を殺した元の飼い主に噛み付いた。暴れまわった犬を止められる者は、誰もいなかった。
 ただ、主人を失い途方に暮れていた犬に、近づく人間の影があった。犬は影のことなど、もうどうでもよくなっていた。



   ◆



 綺麗だと言ってくれた人を、守れなかった。
 あの人はどこかへ連れて行かれてしまった。
 今更、仲間のところに戻ることなんてできない。
 それならいっそ、連れて行かれたあの人を追いかけよう。
 今度こそ、守ってみせる。
 あの人に酷いことをしたら、殺してやる。
 自分が戦争兵器だってこと、忘れてた。
 どうせ殺すことしかできないんだ。あの人のために殺そう。
 待ってて。今行くから。
 今度こそ、守るから。泣かせないから。
 もう、あんな思いをするのは嫌だ。

「そう、なら道を開いてあげる」

 凛とした、声がした。