Tragedy

〜 壊れゆく世界へ 〜

守るべきヒト




 あの人はボクを綺麗だと言ってくれた。
 嬉しかった。人間を殺すだけしかできないボクを綺麗だと言ってくれて。
 だからボクは飼い主の命令を守るよりもあの人のところへ行きたかった。
 人間が邪魔をする。人間の攻撃はボクには効かない。
 無視をして、あの人を探す。見つけたあの人は、死にたかったらしい。でも、ボクにあの人を殺すことはできない。
 綺麗だと言ってくれたあの人。ボクは、あの人のための犬になる。



   ◆



 オンワという騎士を手に入れたアリスは、子どもを連れて【ウツロ】を探した。子どもも最初はオンワのことを怖がっていたが、オンワがアリスに懐いている姿を見て、オンワへの恐怖心は次第に薄れて行った。移動も楽になったので、オンワの頭に乗って、二人、と一体は移動を開始した。
 オンワの目にはセンサーが取り付けられている。どうもそれは人間と【異界人】を判別するもののようで、【異界人】がいる場所は避け、人間の捜索をした。オンワの姿を見て、隠れていてもセンサーには映る。アリスたちにも分かるように、オンワは頭から小さなパネルを出し、そこにセンサーで識別した反応を映し出していた。

「いないねぇ」
「そうだね」

 オンワのこともあり、子どもはすっかり泣かなくなっていた。アリスも子どもを邪魔物だと感じなくなっていて、関係も怒鳴ることが多かった前と違い、良好なものになった。それも全て、オンワが居てくれたからだ。アリスはオンワに感謝をした。
 今日も二人と一体は、【ウツロ】を探して進む。オンワがいてくれて、攻撃に会うことも少なくなり、アリスは平和な日々を送っていた。

「あ、お姉ちゃん見て、これ」
「ん?」

 パネルには緑色の点がいくつも表示されていた。集団で固まって、何かをしているらしい。

「緑は、【ウツロ】。赤は軍人さん。紫が【異界人】なんだよね?緑がいっぱいいるってことは、【ウツロ】?」
「そうだといいね。オンワ、詳しく調べられる?」

 ビビビ。

 返事のビーコン音を合図に、オンワの目が青色に輝き出した。しばらくすると、パネルに新しい情報が出てくる。人間の集団、【ウツロ】で間違いない。アリスたち人間の字で、そう書かれていた。二人は目を輝かせ、オンワから下りて【ウツロ】の元へ向かうことにした。
 念のため、オンワに調べてもらったが付近に近づく【異界人】もなく、アリスと子どもの二人はオンワと別れ、【ウツロ】の元へ向かった。

 【ウツロ】と合流した二人を待っていたのは、冷たい現実だった。

「悪いが二人は受け入れられない。怪我人も多く抱えていて、移動が制限されているんだ。一人くらいなら、大丈夫だと思うが……」

 【ウツロ】のリーダーをしている男が言った。【異界人】と軍の戦いに巻き込まれたのか、大勢の怪我人を抱えていた。確かに、この中に二人も加わることはできない雰囲気だった。子どもは勝手に怪我人の手当ての手伝いをしており、忙しなく住処を走り回っていた。その姿を見て、アリスはため息をついた。

「じゃあ、あの子を入れてあげて。母親のことを気にかけているみたいだから、きっとどこかで再会できるでしょ」
「分かったが……君は大丈夫なのか?」
「あたしは、大丈夫。【ウツロ】暮らしは慣れてるから、一人でもやっていける」
「そうか……すまないな」
「別に、いい。それじゃあ、あの子を連れて来るよ」

 オンワの元に戻ったアリスは、子どもに別れることを告げた。子どもは駄々をこねた。だが、別れないわけにはいかない。彼女には彼女の、母親と再会する役目があるのだ。
 子どもはオンワとも別れの言葉を告げ、アリスはリーダーに子どもを預けた。心配そうに子どもはアリスを見ていたが、アリスはそれを笑って誤魔化す。心配がないわけではなかった。食料、【異界人】からの攻撃、全てが心配だった。たった一人で、次の【ウツロ】を探して果てない放浪をしなければならないのだ。
 ――大丈夫。
 アリスは、そう思った。いや、それは確信に近いものだった。オンワが居るから、アリスを守る、騎士が居るから、だから大丈夫だった。
 子どもを【ウツロ】に引渡し、オンワの元に一人戻ったアリス。オンワは寂しそうに見えるアリスを心配そうに、ビーコン音を鳴らす。それを聞いて、アリスはオンワに手を伸ばす。別れが嫌なわけではなかった。【ウツロ】においては、当たり前のことだった。死。別離。はたまた置き去り。様々な方法の別れがあった。それは、【ウツロ】という集団を保つために必要不可欠だった。

「寂しくない、ってわけじゃあないんだけど……」

 心に燻る寂しさ。決して、寂しくないわけではなかった。寂しい。いつだろうと、別れは寂しいものだ。別れが必要なことも理解していた。だが、いくら頭で理解しようとも、割り切れないものがある。それが、寂しさだった。
 オンワがアリスの手に、鼻をこすりつけてくる。アリスはオンワを撫でる。無機質な金属の冷たさが、心地よく感じた。

「寂しいけど、あたしにはオンワがいるから、大丈夫」

 アリスは笑う。だが、その笑顔はどこか寂しさが見え隠れしていた。それをオンワも感じ取っていたのだろう。オンワはまたビーコン音で何かを訴えていた。
 ――大丈夫だよ。
 そう言っているかのようだった。アリスは苦笑する。オンワにまで心配をかけている自分に、内心呆れた。アリスはオンワの頭によじ登ると、オンワの頭を数回、軽く叩いた。

「行こう、オンワ。平穏に暮らせる場所に」

 ビービビビー。

 アリスとオンワは歩き出した。平穏に暮らせる場所。そんなものが、本当に存在しているかどうかも分からなかった。



   ◆



 平穏に暮らせる場所。そんなもの存在しているわけがない、とアリスは考えていた。実際そうだった。どこもかしこも戦場になり、アリスはオンワと共に逃げる日々を送っていた。逃げて、逃げて、どこまでも逃げるばかりの日々。見覚えのある人間の死体を見ることも少なくなかった。ぼんやりと空を見上げ、「あの子は母親と会えただろうか」と考えることも多かった。
 食料について困る事は少なかった。アリスが眠っている間にオンワがどこからか調達してくれることが多く、食料を必要としないオンワがアリスのために持って来たものだった。アリスは喜んでそれを食べた。それがどこから持って来ているものかも知らずに。
 薄々、アリスは感じ始めていた。自分はオンワに生かされている、と。
 【ウツロ】としての勘は既に衰え始めていた。取り戻すのは極めて難しいだろう。アリスはもう、一人で生きていけなくなっていた。オンワと共に生きる道しか残されていなかった。

「オンワ」

 アリスがオンワを呼ぶと、隣で丸くなっていたオンワが顔を上げた。ビービー、とビーコン音を鳴らす。

「あのね、オンワ」

 そこまで言って、アリスは言葉に詰まった。何を言おうとしていたのか、何が言いたかったのか、それまで頭の中にあったはずの考えが一瞬で消え去ってしまった。呆然と、アリスはオンワを見上げる。不思議そうな顔をして、オンワはアリスを見返す。

「なんでもない」

 アリスはオンワに笑みを向けた。オンワも目も嬉しそうに光る。
 突然、アリスの背後から爆発音が聞こえてきた。オンワは飛び起き、刃のついた前足で器用にアリス傷つけないように掴むと、自分の背に乗せた。アリスはオンワの骨組みと剥がれかけた外装の間に入り込み、身を隠す。
 爆発の後には、銃声が聞こえてきた。それに混じる微かな怒声。

「オンワ」

 アリスが言うと、オンワは走り出した。地響きを鳴らし、戦場から離れるべく駆けて行く。今まで何度も続けていた行為だ。今日も同じ。逃げ切れる、とアリスは思っていた。オンワも、そう思っていた。
 背後から、銃声が聞こえた。それはすぐ近くだった。オンワの足が、止まる。アリスは隠れながら、オンワの先にあるものを見た。
 ――それは、【異界人】たちの軍勢だった。オンワに何か言う。オンワの目の色が白に変わる。困惑を表すその色。逃げ場はなかった。アリスが背後を確認すると、そこには人間の軍が迫りつつあった。このままでは挟み撃ちになってしまうが、逃げ場はない。冷や汗が垂れるのをアリスは感じていた。
 どうしよう、とアリスは何か策を考えるが焦りばかりで良い考えなど浮かばなかった。オンワも困惑して、どうすればいいのか分からない様子だった。刃が幾つもついた尾が揺れる。【異界人】たちはオンワが言うことを聞かないのを不思議に思っているようだった。
 それを見て、アリスの頭にある考えが浮かんだ。逃げ切れるかどうかは分からなかった。だが、挟み撃ちという最悪の状況は避けられる。アリスは小さな声で、オンワに言う。オンワなら聞き取れる程の音量で。

「オンワ、【異界人】たちの頭上を通って逃げて。それしかない。逃げ切れるかどうかは分からないけど……」

 オンワが鳴く。了承の声だった。ぐっと膝を曲げるオンワ。どうしたのかと【異界人】たちがオンワに向かって声をかける。オンワは返事をしない。後ろからは人間の声が近づいている。オンワは曲げた膝を伸ばし、【異界人】たちの頭上を飛び越えるべく跳んだ。
 走馬灯のように、時間がゆっくりと流れている感覚に襲われた。アリスは眼下を確認する。『異界人』たちは驚いた顔をして、オンワを見ていた。命令を無視して、逃げ出そうとする戦争兵器に、困惑が隠しきれていなかった。

「オンワ」

 アリスは叫ぶようにオンワの名を呼んだ。オンワは着地すると、素早く駆け出した。『異界人』たちの兵器を蹴り倒し、踏み潰し、颯爽と戦場を駆けて行った。【異界人】たちは追って来なかった。目の前に現れた人類の軍の対処をしなければならなかったため、オンワとアリスを追うことはできなかった。アリスはそれをパネルで確認すると、ほっと息を吐いた。
 逃げ切れた、そう思った矢先、前方から別の戦闘音が聞こえてきた。

「足を止めないで」

 アリスに言う。そこは地獄絵図のようだった。人類も【異界人】も死体が積み重なり、それでも尚、銃撃戦が続けられていた。味方の死体の垣を越えて進軍していくその姿に、アリスは息を呑んだ。手足、胴体が千切れた死体があちこちに転がっている。腕が無く、腕はどこだと探さんばかりに徘徊している者も居る。まさに地獄と言うべきその姿に、アリスは目を背けた。
 オンワはアリスに言われた通り、足を止めなかった。アリスを守れるのはオンワだけだった。それを、オンワは分かっていた。

 ――戦場を駆ける一匹の騎士イヌは、愛する主人を守るために足を止めない。