Short Story
煙の夢
――こんな、夢を見た。
*
僕はいつも君を見つめている。クローゼットの中に、ベッドの下に、天井裏に、僕は潜んだ。気付かない君は、時折僕がかける声に怯えた姿を見せる。「おはよう、いい天気だね」「その服可愛いね」「早く行かなきゃ、遅刻するよ」「気を付けてね」たった一言だけなのに、君は狼に追い詰められ震える子羊のようだ。君が留守の隙を見計らって、部屋の中を荒らす。荒らして、すぐに元に戻す。戻さなくても物たちに生えた足は、自らの定位置に戻っていき、その場所で眠る。三角形の好きな君はその小物を集める癖がある。飾りのついたヘアゴム、ヘアピン、バレッタ、ストラップ、消しゴム、服の柄でさえ三角形のものを着ている。
彼女は決して、蟷螂のような美人ではない。蜜蜂のように可憐でもない。ジョロウグモのような色気もない。どちらかと言えば、紋白蝶のように地味で、飛んでいても誰も気に留めない。人ごみに紛れれば、溶け込んでしまう。そんな少女だ。肩の長さで切りそろえられた濡羽色の髪、やや三白眼気味の黒い瞳。強気な印象を与えるが、彼女自身は怖がりだ。
「おはよう」
声をかけると、びくりと肩を震わせる。自らの体を抱き締め、恐る恐る振り返る。視線の先にあるのは、僕が身を隠すクローゼットだ。開けようと近づき、手を伸ばす。
「遅れるわよー」
階下からした母親の声に、彼女は戸惑った表情をする。そして、クローゼットから視線をそらし、部屋を出ていった。
僕はかけてある服を掻き分け、クローゼットからこっそり出た。音を立てないように部屋を歩き、君の寝ていたベッドに潜り込む。まだ残っている君のぬくもりが体に染み込んでいく。目を閉じて、布団の中で君が戻ってくるのを待った。鼻から眠りを誘う虫が入り込んでくる。温かさのせいで眠気を増していく。重いまぶたを開くことができない。階下で誰かが走り回る音を聞きながら、僕は意識を手放した。
「入るぞー」
そう言いながら無遠慮に部屋に入ってきた、小太りの男。顔立ちは君と似ている。突然入ってきた父親に動揺しながらも平静を保ち、彼女は父と向き合った。男は煙草を持っていた。さほど広くない君の部屋に煙が満ちていく。君は嫌がるそぶりも見せず、ため息を吐いて「煙草、消してよ」と言う。男はげらげらと下卑た笑い声を上げ、「何言ってやがる」と言った。煙草を吸い、息を吐く。白い煙はゆらゆらと揺らめき、生きているかのように君の周りを回る。クローゼットの中から見ていた僕はその非現実な光景に目を奪われた。
「煙を操れるのに、煙草手放しちゃ意味ねぇだろ」
さぞ当たり前のことのように言い放つ。意味が分からなかった。
「そういや、お前は煙が見えるんだったな。……何が見えるんだっけ?」
父のその言葉に、君はまた息を吐く。「娘のことも忘れちゃったの?」と言う。父は申し訳なさそうに笑う。目を伏せ、自身の周りをくるくると回り続けている煙の輪を見つめる。「気配だよ」面倒そうに言葉を吐き出した。「そうかそうか」と父が言うと、ふとクローゼットに目を向けた。部屋に充満する煙が動き出す。調べるかのような動き。煙はクローゼットの中にも入り込み、隅々まで調べようとする。
「あそこ、どうしたんだ?」
父の言葉に、彼女はクローゼットを見た。僕を見透かしているかのように目を細め、睨んだ。男が近づいてくる。来るな、来るな。目を見開き、じっと扉を見つめる。小さな隙間から部屋が見える。ぺたり、ぺたり、とフローリングを裸足で歩く音がする。それはクローゼットの前で止まった。隙間から光が途切れる。真っ暗闇が僕を包み込む。嫌だ。嫌だ。ぎゅっと目を閉じて、歯を噛み締める。耳を塞いだ。
――体がびくりと動き、驚きのあまり目を開けた。周囲を見渡し、クローゼットの中だと分かると小さく息を吐く。覚めていく頭で、今まで見ていたものが夢なのだと分かった。夢で良かったと安堵する。どくんどくんと激しい鼓動を刻む心臓を鎮めようと、胸に手を当てる。物音を立てないように注意していると、目覚ましのけたたましい音が部屋に響いた。朝か、と僕は君を見つめる。眠気に纏わりつかれた体は思うように動かないが、手を伸ばし、目覚ましを止めた。
「おはよう」
声をかけると、君は肩を震わせる。ベッドから抜け出し、クローゼットに背を向けて立つ。震える体を抱き締めて、深く息を吐いた。「私ね」突然、弾むように軽い口調で言葉を吐き出す。「人の気配が煙になって見えるの」微かに、鼻で笑う音が聞こえた。
戦慄、困惑、何故という感情が湧き上がる。彼女は今、何と言った? 理解が追い付かない。焦りから汗が垂れる。手が震える。ゆっくりと彼女がこちらを見る。ふ、と息を吐く。冬でもないのに、口から煙が漏れた。――これは、夢だ。近づいてくる君の姿から逃れようと目を閉じる。夢なら、早く覚めてしまえ。目が覚めれば現実に戻れる。ここはまだ夢の続きだ。そうに決まってる。重厚な扉が開かれる音が聞こえ、闇に差す光を感じた。