Short Story
ミシェルの嘘
じーじじじじじじじじじじじじ。
うだるような暑さで目を覚ます。夜中にタイマーをセットしたクーラーは役目を終えて、停止という睡眠期間に突入していた。扇風機は、部屋の置物。インテリアに成り果てていた。壊れてしまって使えないだけなのだが。外では五月蝿いくらい、アブラゼミが鳴いている。暑い、暑い。寝ていられない。汗を吸った、湿ったパジャマの前のボタンを開ける。だらしないと怒られても、暑いのだから仕方ない。枕元に置かれたケータイに手を伸ばす。画面を見ると、時刻は十一時五十八分だった。マズイ、お母さんに怒られる。いくら夏休み中だからって、昼に起きるのは怒られてしまう。慌てて起きる。ベッドから出て、パジャマを脱ぐ。汗で肌がべたべたして、髪も汗ではりついていた。箪笥の引き出しからタオルを出して、汗を拭き取り、その後で制汗剤を塗る。肌がすーっとして、とても気持ち良い。部屋のクーラーをつけて、服を着る。部屋が涼しくなるまで、リビングに行こう。確か、冷蔵庫の中にアイスがあったはずだ。
部屋を出て、廊下を抜けて階段を下りる。ぺたぺた、と汗ばんだ足で階段を下りていく。汗で、足跡が残っていたのがなんだか面白い。階段の中間地点の壁にはカレンダーが貼られている。今日の日付は、七月二十日。学校は夏休みに突入しているから寝坊しても困ることはない。せいぜいお母さんの雷が落ちるだけ。
「お母さん」
一階の廊下は、しんと静まり返っていた。テレビの音もしない。ひょっとして、お母さんは出かけているのかな。いや、でも、お父さんも仕事が休みだし、おじいちゃんとおばあちゃんもいるはずだ。階段の側にある玄関を覗く。靴は、ちゃんとある。皆家に居るはずだ。でも、どうしてこんなにも静かなんだろう。
吹き出た汗がたらりと伝う。気持ち悪い。このままシャワーを浴びるのもいいかもしれない。暑い。暑さで、立っていられない。廊下が灼熱の砂漠のようだ。早く、アイスを食べて涼もう。
「お母さん?お父さん?」
リビングに入る。クーラーがかかっていなかった。暑い。ぺたぺたと足を鳴らしながらキッチンに向かう。冷蔵庫へ、冷蔵庫にあるアイスが私を呼んでいる気がする。食べてって、声がする。冷蔵庫の前に立つ。冷凍庫を開けて、アイスを出す。よくある、チョコレートのカップアイス。引き出しからスプーンを出して、アイスの蓋をゴミ箱へ投げ入れる。
「おかーさーん、いないのー?」
外出していないのに、どこにいるんだろう。アイスをスプーンですくって食べる。食べながら家中を回る。だが、どこにもいない。仏間、寝室、トイレ。どこを探しても居ない。一体どこにいるのだろう。
そうだ。リビングをちゃんと見ていない。ひょっとしたら、あの暑いリビングにいるのかも。それに、入れ違いになった可能性だってある。溶けかけているアイスを食べながら、リビングへ戻った。
「お母さん?お父さん?」
キッチンには誰もいなかった。ダイニングにも。なら、リビングは?ソファーの陰に、足が見えた。
「なんだ、寝てるんだ」
ソファーの側まで寄って、床を見る。お母さんとお父さん、おじいちゃんにおばあちゃん。皆寝ていた。こんなに暑いのによく寝れるよ。皆ちゃんと居るのを確認して、私は部屋へ戻った。戻った部屋は、あまり涼しくはなかった。残ったアイスはほとんどが液体になってしまっていた。
もう一本食べようと思い、リビングへ向かう。あんなに暑い部屋で、皆揃ってよく寝ていられるよね。暑さに鈍くなってるのかもしれない。熱中症とか、最近多いから気をつけて欲しいんだけどな。リビングに入ると、お母さんたちはまだ惰眠を貪っていた。よく眠るよ。でも、暑い。リビングに入ると汗が毛穴という毛穴から吹き出ている気がする。暑い。汗は拭っても意味がないくらい次々と出てくる。この部屋、なんか臭い。どうしよう。臭い。換気したいけど、窓を開けたら虫が家の中に入ってきてしまう。とりあえず、臭いのをなんとかしよう。虫が入ってくるのをどうにかしなきゃ。
額の汗が肌を伝って目に入る。目を擦っていると、虫の羽音が耳に入ってきた。蚊。どこから入ってきたのか、蚊がいるんだ。音のしたほうを見ると、蚊にしては大きかった。なんだろう。それは寝ているお父さんの足に着陸する。じっと見ていると、それは蝿に似ていた。ふと、お父さんの顔を見ると、口から薄黄色の何かが零れていた。何か食べたまま寝てしまったのかな、なんて思っていると、その薄黄色の物体はぐねぐねと体をくねらせ始めた。ぞっと、お父さんから離れる。お父さんの足に着陸した蝿に似たものは、蝿だった。赤い目を私に向けている。胸のところにある縞模様が特徴的な蝿だった。蝿は私目がけて離陸する。私は手で振り払おうとするが、蝿は見事に交わして来る。私が蝿と格闘していると、偶然テレビのリモコンに当たってしまったらしく、突然テレビに明かりがついた。
テレビは特番をやっている最中だった。蝿はいつの間にかどこかに行ってしまっていたようで、私はこれは何の番組だったかな、と思いながら番組名を確認するため、新聞に手を伸ばした。どうやら、『予言は嘘だった』と言う名前の番組らしい。予言、何のことかまったく分からない。いつしか臭いまで気にならなくなっていた。暑い。暑さだけを感じる。だが、虫が多いのが気になった。隣にある和室に行き、蚊取り線香を持ってくる。火を灯すと、蚊取り線香特有の臭いがした。けれど、それもリビングの妙な臭いに掻き消されてしまう。どれだけ臭うのだろう、この部屋は。
ノストラダムスの大予言、見事に外れてしまいましたね。
司会の声が、耳に止まる。私の動きも止まる。螺子の切れた人形みたいに、動けなくなった。突然、部屋の臭さで吐き気を催した。食道を通って、胃にあるものがせり上がって来た。慌てて口元を押さえる。止められない。そのまま、床に吐いてしまった。
橙色した、鮮やかな胃液。カーペットに染みこんで行く橙。異臭。慌てて、雑巾を取りに行こうと部屋を出ようとした時だった。どうして、どうして気付かなかったんだろう。胃液のきつい臭いが、元々あった臭いと合わさって、鼻が麻痺してしまうほどの臭いを醸し出していた。駄目だ。リビングのドアを開けて、廊下へ出ようとするが、足がもつれて転んでしまった。蝿の羽音が耳に入る。やめて。もう、やめて。耳を塞ぐ。異臭が身に染みこんで行く。逃げたかったけれど、腰が抜けて動けなかった。
テレビ番組の司会が、私の状況を無視して話を進めていく。
各地では、予言を信じて自殺した人まで居たそうだ。嘘つきに騙されて、命を失った人も居る。ノストラダムス。司会者が本名はミシェル・ド・ノートルダムだと言っていた。嘘吐き。予言なんて、真っ赤な嘘だった。
冷たくなった頭で、お母さんたちを見た。私は死ぬのが嫌だったから、拒否した。部屋に閉じこもって、それからは知らない。お母さんたちはどうやって死んだんだろう。分からない。けれど、リビングにいる蝿の量が、腐敗しつつあることを知らせていた。お父さんの口から零れていた薄黄色のあれは、たぶん蛆だ。真っ赤な目をした蝿は親。卵を生みに来たんだ。
蝿が飛ぶ、蝿が飛ぶ。蛆の這い回る音がする。どろどろに溶けていく。臭いのせいで、鼻は仕事を放棄していた。感覚が麻痺していった。頭も思考することを放棄していった。ただ、呆然と目の前にある肉を見る。腐っていく。何が。頭が。肉が。目の前にあるのは死体。蝿が集っているお母さん。蛆が肌を這い回るお父さん。だらしなく開いた口から蛆を吐き出すおじいちゃん。耳から蛆を出し、口の周りが蝿でまっ黒になっているおばあちゃん。私だけが、まだ生きてる。
予言は嘘だった。家族は予言を信じて、世界が滅びるところなんか見たくないって、死んでしまったのに。世界はまだ滅んでいない。壁に手をついて、立ち上がろうとする。膝が笑って言うことを聞かなかった。でも、ここから出なければ。腕だけで体を支えることで、なんとか立ち上がることができた。壁伝いに部屋を出る。暑い。暑い。暑いよ。喉が渇いた。頭がくらくらしていた。暑い。汗が止まらない。せっかく着替えたのに服は汗で水を被ったのではないかと思うほど濡れていた。確か、おじいちゃんは玄関に携帯電話を置いていたはずだ。外出するとき、忘れないようにって。靴箱の上に置いてある携帯電話を見つけた。手を伸ばす。視界にあるものの色がおかしくなる。立っていられない。倒れるように、靴箱に手を伸ばす。携帯電話を取ることはできたが、そのまま倒れてしまった。意識が朦朧とする。目蓋が重い。寝てはいけない、と携帯電話を操作する。一、一、零を押す。通話音が遠い。テレビの音も、とても遠く感じる。
「警察です、どうされました?」
もう、その声に答えることができなくなっていた。