Short Story

甘い誘い




 訳が分からない訳ではなかった。僕が犯した罪は許されざる罪。取り返しのつかない罪。嗚呼、父上。貴方が何を背負って生きていたのか、僕は今になってようやく分かりました。こんな罪深い僕を、どうか許してください。
 僕は、全てを失った。大切なもの全てを。気が付かなかったんだ。彼らがそんなに大切だったなんて。でも、もう戻らない。彼らは僕を置いて消えてしまった。僕は、独りになってしまった。この広い宇宙で、僕はただ独りきり。父上、貴方の愛した人は、一体どんな人だったのですか。父上は言っていた。欲しくても、絶対に手に入らない女がいた、と。それは人間でいて人間ではないような女で、父上は彼女が欲しかった。でも、彼女を手に入れることはできなかった。それだけでなく、父上は、本体から切り離され、暗い宇宙を旅することになってしまった、と、父上は言っていた。
 今なら、分かる気がする。たった一人、暗い宇宙で彷徨い続けた父上の気持ちが。僕は愚か者だ。うつけだ。駄目だ。駄目だ。独りは、寂しい。
 ―――これが、サビシイ。
 僕は両手で自分の体を抱きしめた。寒い訳ではないのに、酷く寒い。苦しい。苦しい。泣いてしまいそうだ。頬がミシミシと割れる。
 ―――嗚呼、元の姿に戻ってしまう。元の、醜い姿に。
 人間に擬態する僕らは、元の姿は酷く醜い。僕は元の姿が嫌いだった。人間は化粧をして仮面をかぶってでも綺麗に見せたいのに、僕らはどんなに着飾っても醜いまま。それが、不公平のように感じた。だから、僕らは人に馴染むためにも人に擬態することにした。
 最初は上手く擬態することができなくて、迫害を受けたこともあった。けど、僕らは経験を積んで上手く人に擬態できるようになった。でも、そんなことができたのは父上の力があったからで、父上さえも消えてしまった今、僕に擬態する力はない。だから、元に戻ってしまう。
 頬が割れる。落ちた破片。とうとう、元に戻る時が来てしまった。
 むき出しになった元の皮膚から、黒い霧が出始めた。黒い霧は元の皮膚と擬態のために被った殻の間に入り込み、内側から殻を破ろうとする。どうすることもできない。元の姿に戻ったら、僕はどうなってしまうのだろう。
 父上がいない今、元に戻ったらどうなるのかさえ僕には分からない。
 消えるのか、それとも、理性を失って暴れまわるのか。
 【強欲】を背負う僕は、どうなってしまうのだろう。
 ふと、黒い霧が散っているのに気付いた。皮膚が、酷く冷えていく。この感覚。この感覚は分かる。本能で分かる。これは、消えてしまう。

「そうか、僕は消えるのか」

 自分でも驚くほど、酷く冷めた声だった。
 僕は消えることを受け入れるとでも言うのか?いや、それはない。消えれば、解放される。でも、消えるのは嫌だ。僕は、僕は、まだ生きていろんなことを知りたい、手に入れたい。だって、僕は【強欲】だから。

「じゃあ、その願い叶えてあげるよ」
「誰だ?」

 誰の声だ。こんな暗い宇宙を彷徨える人間がいるはずがない。なら、もっと別の何かということか。

「ピーターパン。そう呼ぶといい」
「ピーター、パン……」

 ふざけた名前だと思ったが、何者なのか分からないのでそんなことを言うことさえできない。怒らせてしまったらどうなるか、分からない。少なくとも人間ではないのだ。怒らせないほうが得策だ。

「キミは選ばれた。消える前に、一つだけ願い事を叶えてあげるよ。ただし、【語り部】になってくれるなら、ね」
「【語り部】?」
「そう。或る世界で物語を紡いだり、はたまた物語に介入したりするだけの簡単なものだよ」
「貴方に利点があるとは思えない」

 一体何を企んでいるんだ。声は子どものような声だが、実際はどうか分からない。僕だって擬態しているから見た目が変わらないのに年はかなりの年だったし、声だけで判別をつけるなんてもってのほかだ。

「そうだね。でも、キミがいることで世界は大きく流れを変える。それだけでボクにとっては利点なんだよ」
「僕の存在、か」
「願いはきちんと叶えてあげるよ。家族を取り戻すことでいい?」
「それでいい」
「契約、成立。キミの体はもうそれはガタがきてるみたいだから、こっちの体を使ってね」

 現れた新しい体。顔も、体も、今の僕を少し成長させたようだった。不用意に器を入れ替えるのはよくないが、すでに擬態は剥がれつつある。ここはこの殻を被るしかないようだ。僕はしぶしぶ、黒い霧で殻を破った。そして、すぐさまピーターパンが用意したという殻を被った。

「よく似合っているよ」

 これが、僕の新しい体。

「じゃあ、これからよろしくね。【黒の語り部】」

 僕はその日から、新しい殻を被って、【黒の語り部】と呼ばれるようになった。