03. Grave




 目を閉じれば、昨日のことのように思い出せる。あの日、全てを失った。あの男に、全てを奪われた。
 嗚呼、ディーヴァ。歌ってくれ。あの日から眠るのが酷く恐ろしい。あの日の夢を何度も見る。お前の歌声を聞いていると、怒りや復讐も忘れられる。心が穏やかになれる。だが、忘れてはいけないことだ。この怒りも、悲しみも。  ――せめて、今だけは。俺だけの歌姫。



   ◆



 その男は、旅をしながら傭兵をしていた。こげ茶色の髪に、強気な雰囲気が漂う深緑色の瞳。いつも楽しげに緩められている口元と咥え煙草が印象的な男だった。男の名はアヴァンと言う。余所者を嫌っていた俺はいつもアヴァンを遠くから見ていた。いや、俺だけではない。村に突然やって来た余所者を村の男たちは一線を敷いて見ていた。
 だが、女たちは顔の整ったアヴァンに群がった。最初こそ愛想笑いを浮かべ、対応していたアヴァンだったが数日続くと迷惑に思ったのか、昼間は村に居ないことのほうが多くなった。
 村で一人暮らしている俺には、唯一の肉親がいた。村のため、名前を捨て、神に身を捧げるシスターとなった妹だ。両親は早くに亡くした俺たちは、村人たちに育てられたようなものだった。妹は村外れにある小さな教会にいる。以前は牧師が居たのだが、流行病で亡くなってから、引き継ぎの人が来ないままだ。そのため、シスター一人で教会の掃除をし、礼拝に来る人たちの相手をし、神に祈りを捧げる。
 そんな静かな暮らしをしていたからか、気付くとアヴァンは自分に言い寄ってこないシスターの居る教会へ身を寄せるようになっていた。それが目につくと、不快感を抱いたのをよく覚えている。だが、文句を言うこともせず、アヴァンのことを無視し続けることを選んだのは他でもない俺自身だった。それと同時に、神に身を捧げ、深い信仰心を持っていたシスターが、誰も愛さないと信じていた。
 いつものように、村人たちから食材などの捧げ物を教会へ届けに行くと、暗い顔のシスターが立っていた。いつもの優しい笑みはない。

「お兄様」
「どうした?」

 微かに目を伏せる。柘榴石色の瞳が揺れていた。

「悩みが、あるのですが……聞いて下さいますか?」
「嗚呼、いいぞ」

 捧げ物をシスターの暮らす部屋に一旦運び込むと、俺は礼拝堂の長椅子に腰を下ろした。すると、シスターが静かに俺の隣に座る。
 うつむいたまま、話しにくいのか唇をつぐんでいた。 膝の上で手を組んだシスターの瞳の奥に、どす黒い何かを見た気がした。誤魔化すように、シスターの頭を撫でる。 彼女は、はっと顔を上げ、俺を見た。その瞳の奥には何もない。綺麗な柘榴色があるだけだった。俺が笑うと、シスターは呆れたような笑みを浮かべ、ため息を吐いた。

「お兄様のせいで、悩みなんてどうでもよくなってしまいました」
「悪かったな。でも、これくらいでどうでもよくなるような悩みなら、大したことないだろう」

 シスターは不機嫌そうに唇を尖らせる。 それは癖のようなもので、子どもの頃から変わらない。 いくら名を捨て、神に仕える身になったとしても、彼女が俺の妹であるという事実に変わりはない。大切なたった一人の肉親だ。 六つも年が離れているため、妹のことが気になってしまう。大切な家族だから、余計に。

「お兄様は意地悪だわ」

 思わず、笑ってしまう。拗ねてしまったシスターに「それじゃあ、俺は帰るぞ」と声をかけた。シスターは何も言わなかったが、一瞬、陰が差した。
 教会の扉が閉まる前に、礼拝堂で俺を見送るシスターを見た。少し寂しそうな顔をする彼女が立っていた。声をかけることもできず、彼女を置き去りにして、自分の家に戻った。
 ――ちゃんと、真面目に話を聞いてやった方が良かったかもしれない。そう帰ってから思ったが、後悔するには遅かった。


 あの日から俺が捧げ物を届けに行っても、シスターは留守だった。珍しいこともあるものだと思っていたが、数日続くと心配になる。だが、シスターは俺以外の人間とは会っているらしく、俺は自分の行くタイミングが悪いのだとばかり考えていた。
 月の出ない夜のこと、静かに眠りについていた村は、突然炎に蹂躙された。
 外の騒々しさで目を覚ました俺は、窓の外がやけに明るいことに気付き、家を飛び出した。その足で広場へ向かう。家についた火を消そうと、皆がバケツを手に走り回っていた。俺も消火を手伝おうとした時、妻がいない、と誰かが言っているのを聞いた。その瞬間、脳裏にシスターのことが過ぎった。辺りを見渡し、シスターの姿を探す。だが、居ない。こんなことが起こったら、真っ先に駆けつけてもおかしくないのに。胸の内をぞわぞわとした寒気が走る。持っていたバケツを放り投げて、教会へ走り出した。
 息を切らせ教会に着くと、暗い闇の中に白い教会が浮かび上がり、静かに俺を見下ろしていた。恐ろしく思い、息が止まりそうだ。

「   !」

 彼女の本当の名を呼びながら、震える手を誤魔化すように教会の扉を開けた。いつもならシスターが「乱暴にしないで下さいな、お兄様」と呆れた顔をして出迎えてくれる。だが、そこに居たのはシスターとアヴァンだった。
 アヴァンの手には松明。もう片方の手は血で濡れたナイフ。――そして、倒れたシスター。赤い絨毯に真紅が広がっていく。彼女の顔は見えない。だが、青白い肌と絨毯の色が、彼女を物語っていた。  「アヴァン」と震える唇から出た声はか細いものだった。アヴァンは俯いたまま、口を閉ざしている。ぱちり、と松明が微かにはぜた。
「カデヨ、だったか」

 アヴァンは横目で俺を見た。その顔にいつもの余裕を感じる笑みはなく、足元に燃え尽きた煙草が落ちているのが目に留まった。
 ナイフを落とし、新しい煙草を血まみれの手でポケットから出し、火をつけた。そして、深く、煙草を吸う。俺の存在など気にせず、煙草をふかすアヴァンを睨むように見つめる。アヴァンがシスターを殺したのは明白だ。だが、何故? それに、村に火をつけたのは? アヴァンが村に火をつけたとするなら、その理由が分からない。シスターを殺した理由も、何一つ。
「カデヨ、オレはシスターを殺した」

 真白の煙を吐きながら、アヴァンが言った。

「オレを殺したいのなら、真実を知りたいのなら、追いかけてくるといい」

 アヴァンは松明を絨毯に投げた。絨毯には油か何かが撒かれていたらしく、炎は瞬く間に広がった。 血を燃やし、彼女を包み込む。 俺の足は動かなかった。炎は勢いを増していく。側にあった長椅子に燃え移る。 まだ長い煙草を炎の中に投げ捨て、アヴァンが俺の隣を通ろうとした。咄嗟に、アヴァンの腕を掴んだ。
 平然とした目で、アヴァンは俺を見る。その瞳からは何も感じない。 アヴァン、と声を絞り出すのが精一杯だった。

「……憎いのなら、追いかけて来い」

 虫を払うかのように俺の手を振り払い、アヴァンは教会から出て行った。 その後ろ姿を追いかけることもできず、ただ闇の中に消えていくのを見ていた。 ふと、シスターに目を向ける。 炎に包まれて、修道服も燃やしていた。彼女の白い顔が赤く照らされる。けれど、色が戻る訳もなく、彼女はただ、燃えていた。 全てを焼き尽くそうと、炎は広がる。無に還そうと、長椅子を炭にし、床板を焦がせ、絨毯を灰に変えていく。
 シスターを殺したのは、アヴァン。何故、シスターは殺されなければならなかったのか。どうして、   が。アヴァンに殺す理由などないはずだ。
 唇を噛み締める。信じたくはなかったが、目の前にあるものは現実だ。物言わぬシスターがそれを語っている。

「   」

 涙が零れ落ちると同時に、足から力が抜けた。炎の中にいる   に手を伸ばす。熱さも忘れて、届くはずないのに。

「――必ず、必ず殺してやる」

 いつの間にか、火は天井にまで広がっていた。ぱちぱちと音を立てる。 その一部が、落ちてくるようになった。長居していたら、崩れて、下敷きになってしまうかもしれない。そう思っても、動けなかった。
 頭上から大きな爆ぜる音が聞こえ、真上を見上げた。 鮮やかな赤。そして、痛みと熱さ。顔の右側から、じゅう、と音がした。 天井から落ちた木材が、肌を焼く。激痛に声を上げた。すぐに払い除けるが、痛みで呻き声しか出せなかった。
 ――ここに居てはいけない。右手で顔を押さえ、のろのろと立ち上がる。周囲は火の海と化していたが、扉に向けて歩き出す。

「   、   、   」

 うわ言のように妹の名前を呼ぶ。火傷に汗が垂れるだけで、激しい痛みが走る。
 ――   を殺したアヴァンを、俺はこの手で殺してやる。それが終わったら。
 教会から出て、村へ戻る。足取りは重く、途中で何度も躓いた。村に着いた時には夜が明けていた。
 皆が途方に暮れ、燃え尽きた家を見ていた。消火できた家はごくわずかで、大半が家を失った。だが、それだけではない。女たちが殺されていたのだ。 数人が燃え盛る家を出ようとした時、妻が、娘が血を流して倒れていたと言っていた。女たちが殺された後で、火をつけられたのだ。 そのほとんどはアヴァンに言い寄っていた女たちだったが、それだけではなかった。少しでもアヴァンに関わったことがあれば、例え女児でも殺されていたのだ。 アヴァンの泊まっていた宿の女主人、アヴァンが遊んでやったことのある女の子。男の子は無事だったので、訳が分からなかった。
 彼女たちを殺したのがアヴァンなのか、それとも別の誰かなのか、皆考えられなかった。アヴァンは既に村を出ていたため、真偽を聞くこともできない。 村人の一人が、北の街道をふらふらと歩いているのを見た、と言っていた。
 俺には一つだけ確かなことがある。アヴァンがシスターを殺したのは、紛れもない事実だ。
 犠牲者たちの埋葬が終わると、俺は火傷の手当てもろくに受けず、村を出た。己の身を焦がすほどの、復讐心を胸にして。



   ◆



「どうかしましたか? カデヨ様」

 目蓋を上げると、心配そうな顔のディーヴァがいた。静かに眠りたかったのに、あの日の夢は俺を揺さぶり起こす。ふ、と息を吐き、頭を掻いた。

「なんでもない」
「――では、何故泣いているのですか?」

 恐る恐る、頬に触れた。微かな、水の感触。紛れもない、涙だ。何故泣いているのか、一瞬理解できなかった。あの夢の、あの日の記憶のせいで、この涙は意思に関係なく零れている。俺はいつになったらあの日を思い、うなされることも泣くこともなくなるのだろうか。

「ディーヴァ」

 ディーヴァの頬に触れる。陶器のような肌は、手酷く扱えば壊れてしまいそうだ。微かに笑うと、ディーヴァも優しく微笑んだ。それを見ていたら、誰かに縋りたくなった。起き上がり、ディーヴァの胸元に顔を埋める。そんな俺に、ディーヴァは俺の頭をそっと自らの腕で包み込んだ。

「はい、カデヨ様」

 赤子をあやすかのような優しい手つきで、ディーヴァは俺の頭を撫でた。

「歌ってくれ」
「……はい、カデヨ様。それでは、鎮魂歌を」

 嗚呼、ディーヴァ。安らげるお前の歌が、俺には必要だ。
 ――愛している、俺の愛しい歌姫。
 夜の冷たい月を包み込むかのような歌声が、辺りに響き渡った。