失った物
、帰らな
い者




 失った物は、どうすれば戻ってくるのだろうか。

 そんなくだらない問いの答えを考えていた。僕は大切なものを失った。正確には、ものではなく存在。僕は、大切な彼女を失った。失ったと言っても、彼女は死んだわけではない。僕の前から忽然と姿を消したのだ。まるで最初から居なかったみたいに、誰も彼女のことを覚えていなかった。彼女の居た部屋は他人のものになり、彼女のための隙間には別の人間が割り込むように収まっていた。僕が彼女にあげたプレゼントもなくなっていた。彼女という存在が世界から消えてしまった。蜃気楼かおぼろげな意識の中で見る白昼夢のように。だが、僕はその事実に耐えられなかった。彼女は確かに存在していた。僕の記憶の中に彼女は息づいていた。彼女こそが、僕の世界の全てだった。
 手がかりなど何もないのに、消えた彼女を探した。夜の街を歩き、高架橋の下を潜りぬけると、僕は書架の間に立っていた。見上げれば無限に続いているかのように背の高い本棚が並ぶ。辺りを見渡していると、真っ黒な男に声をかけられた。男は僕を見ると、珍しい、と声を漏らした。深海のような瞳を丸くして、とても驚いたような顔だ。――だが、それが酷く不釣り合いだと感じた。男はセイと名乗り、図書館の司書の元へ僕を案内した。司書は若い男女で、気味が悪い。見てくれは僕らと変わらない姿をしているが、本質は違う。羊の皮を被った狼でもない。男の方は人畜無害そうな笑みを浮かべた底知れぬ酔い。女の方は口五月蠅そうな凍える風。そんな気がした。

「――椿?」

 名前を呼ばれて振り返ると、幼馴染の子が立っていた。傍らには闇色の子ども。あれは、いけないものだ。その子は僕が一週間前に失踪したと言った。僕が眉を寄せると、真っ黒な男がここは時間の流れがズレているから、と口にする。彼女はもう、ひと月もここにいるらしい。茶色だった髪はところどころに黒いメッシュが入っていた。染髪したのに色が落ちているみたいだった。
 覚えてはいないだろうと思いながら彼女のことを聞くと、覚えていた。だがどこに行ってしまったかまでは分からないらしい。何故覚えているのかと問うと、曖昧に笑みを浮かべるだけだった。
 名前を呼ぼうとすると、その子は自らを『白昼夢』デイドリームと名乗った。そして、以前の名前は捨てた、と。  、と心の中で口にした。
 黙って僕らの話を聞いていた司書の女が、彼女を探したいならこの図書館に居るといい、と言った。そして、ここがどういう場所なのか説明し出した。
 世界のどこにもない場所が、この図書館だと言う。膨大な本の一つ一つが誰かの物語であり、世界である。ここは世界の分岐点。様々な世界へ行くための道標。――だが、滞在には許可がいると言う。名を捨てたという『白昼夢』デイドリームは正確に言えば、滞在の対価として名前を奪われたそうだ。

「いいよ、ここに居ても」

 僕にそう言ったのは、双子の子どもだった。対価は、と問えば、双子は顔を見合わせ、にっこりと笑うだけだった。
 相反する色を持つ双子に、どうやら気に入られたらしい。司書曰く、たまに僕のような人間が現れると言う。双子は手を繋いで、図書館の奥へと消えた。
 これを、と司書の男からブレスレットを手渡された。赤い石のついた革のブレスレットだ。彼女を探す道案内役だと言った。「はじめまして、お嬢さん」と軽快な口調でブレスレットが声を発した。眉を寄せ、司書の男を見る。男は穏やかな笑みを浮かべて、それは意思を持っているんだ、と言う。五月蠅いかもしれないけれど役に立つから、と言われ、仕方なくそれを左手につけた。
 司書の女からは己を守る武器として刀が与えられた。不思議と手に馴染む刀で、ブレスレット同様意思を持ち、喋る刀だと言う。刀はブレスレットと違って、無口な奴のようだ。小さな声で「よろしくね」と言った。
 名前をつけてあげるといい、と言われて、それぞれに名前をつけた。だが、ブレスレットは名前を拒み、あだ名で呼ぶことにした。刀をアーシェ、ブレスレットにチビというあだ名をつけた。
 それじゃあ、いってらっしゃい。そう言われ、真っ黒な男が適当に本棚から抜き取った本を手渡される。勢いのまま受け取ってしまったそれを見つめると、司書の男が表紙に触れた。眩い光に襲われ、僕は目を閉じた。
 次に目を開けた時、僕はその本の世界に立っていた。旅が始まった。――彼女を見つけ出すためだけの旅が。

 失ったものは取り戻さなければならない。そのための対価として、僕は帰る場所を捨てた。
 彼女のいない世界なんて、僕はいらない。世界が彼女の存在を認識しないなら、僕はそんな世界、認識したくない。

 父親は分からず、母親が早くに死んだ僕に、家族というものは存在しない。探せば祖父母か親戚がいるのかもしれないが、聞かされていないし探そうとも思わない。僕は独りだった。孤児院で育ったが、中学から孤児院でお世話になり出した僕は、他の人間にとって異質な存在だ。孤児院には既にいくつかのグループが出来上がっていて、僕のために空いた隙間などなかったし、僕のために空けてくれる隙間もなかった。
 自然と、僕は荒れていった。学校でも交友関係などなかった。そんな僕の前に現れたのが、彼女だった。藤の花の下で笑う彼女は、花の精のように見えた。物静かな彼女はお喋りな子たちと仲良くすることもできず、地味な子たちとも仲良くできず、独りだった。だからこそ、僕らは惹かれ合ったのかもしれない。共にいることが増えていき、僕らの関係は親密なものになっていった。
 けれどそれは、友人としての関係でしかない。僕は自分の心の中に燻り出した恋慕に苦しんだ。禁忌とか禁断とか、どうでも良かった。気付いた時にはもう遅い。僕は彼女を愛している。同性であろうとも、彼女を女性として愛していた。
 許されないことだとしても、それが僕の思いを止める理由にはならない。 この思いは僕のものだ。神でさえ、これを奪わせない。
『椿、椿』
「……何だ、チビ」
『この世界に“探し物”の反応はないよ

 チビに言われ、僕は落胆する。ここにも彼女はいない。
 今まで数々の世界を渡り歩いてきた。命の危機にだって曝されることもあった。けれど、いつまで経っても彼女は見つからない。無数にある世界のどこかに、彼女はいるのに。

「痕跡は?」
『あるよ。大分前のだけど』
「どれくらい前だ?」
『この世界の時間で二ヶ月前。図書館の時間で言うと、三日前だね』

 世界には彼女の痕跡が残っていることが多い。まるで、後を追いかけてきて、と言わんばかりに。僕はその後を追いかけるけれど、いつになったら彼女に辿り着くのだろう。

『追いかける?』
「当たり前だ」

 そう言って、僕らは旅を続ける。彼女を見つけ出すために、大切な人を取り戻すために。
 そのためなら、帰る場所なんて必要ない。彼女のいる場所が、僕の帰る場所だから。



   ◆



 椿、と優しい声で彼女が僕を呼んだ。鈴を転がしたような、酷く美しい声。その声で名前を呼ばれるだけで、僕は溶けてしまいそうになる。

「私ね」

 楽しそうに自分の夢を語る彼女。その隣に座り、耳を傾ける。それだけで僕は幸せだった。

「聞いてるの?」
「聞いてるよ」

 愛してる。口の中でそう言った。きちんと口にした時、拒絶されるのが怖かった。
 あの頃は幸せだった。僕はそれを、失ってしまった。