ジャックとマリア/Sample

 少女は走っていた。大人は通れないような路地を通り、置いてあるゴミや瓶を蹴ろうが少女は気にしない。いつしか、足からは血が滴っていた。だが、少女には関係のないことだった。彼女が走り続ける理由は、ただ求めただけだった。求めるために少女は駆ける。それだけのことだ。
 茶色のレンガで出来た建物にもたれる。少女の体は既に走ることを拒否し始めており、肩で息をしていた。足は錘がついているかのように重く、これ以上走れないと思い始めていた。
 少女は地面に座り込み、体を縮こまらせた。そして、大きな木箱の横で隠れるように休み始めた。しばらくすると息も落ち着いてきたが、体には疲労が溜まっていた。
 ――止まるわけにはいかない。
 遠くから聞こえてくる小さな怒号。それを聞いた少女は走り出した。少女を追いかけている者たちは、手に銃や鎌、どこからか持って来た包丁やメスを持っていた。奴らの目は眼球が零れ落ちてしまうのではないかと思うほど見開かれ、真っ赤に充血しており、そこは殺意が満ちていた。
 少女は止まったら殺されると確信していた。だから、足を止めない。ここで殺されるわけにはいかない。まだ何一つ為していないというのに、殺されてなるものか。その意思が少女を突き動かしていた。
 路地を通り、白い教会と呼ばれる通りを横切って別の路地へ入る。路地の先にあったものに、少女は目を見開いた。
 だらしなく開いたソレの口と腹から血が零れ、虚ろな目は空を見ていた。そして、側には青年が立っていた。少女は青年を見上げた。月明かりのない暗い夜では、青年の顔を見ることは出来なかった。だが、ソレと青年を見比べ、少女は確信した。青年を見据え、少女はゆっくりと口を開いた。
「私は、貴方が好きよ」
 そして、ふわりと笑う。
 少女は理解していた。固まってしまう体。ソレを見てしまったせいで一瞬停止してしまった思考。そうなっても、青年が何をしていたか、青年が何者であるかを理解するのは容易いことだった。
 青年は少女など気にしていないかのように、持っていた物を丁寧に袋に入れると、ポケットに仕舞った。そして、瞳に少女を映す。さっきまでは邪魔物かゴミを見るような目をしていたが、今はその瞳に、しっかりと少女を映していた。
「気でも狂ったか?」
 冷淡な声の青年に、少女はくすりと笑みを零す。
「元から狂っているわ。だから、お互い様よ」
 一息つき、少女は青年を見つめる。
「……私は貴方が好きよ。貴方のことを探していたのだけれど、こんなところで出会えて嬉しいわ。貴方は私のことなんて知らないだろうけど、私は貴方を知っているの。そして、私は貴方を好きで、会いたいと思っていたのよ」
 その言葉は、青年にとっては理解し難いものだった。見ず知らずの少女にそんなことを言われ、困惑を覚えた。じっと観察するように少女を見ていた青年だったが、遠くから聞こえてきた怒声に気付き、声のするほうを見る。少女も青年の視線を追うかのように、自分の背後を見た。
「あら、まだ私を追っていたのね。性懲りもない人たち。私がいなくても働き手なんていくらでもいるでしょうに」
 少女はくすくすと笑う。少女は十一、二歳くらいに見えた。だが、その見た目と不釣合いな言葉遣いと口調を使っていた。青年は少女の小さな体に腕を回し、肩に担いだ。
「私を連れて逃げてくれるの?」
 茶化すように少女が言い、青年は少女を睨み、「黙れ」と冷たく言い放つ。だが、少女には聞いていないようだった。血色の悪い紫色した唇が、楽しげに歪む。
「あら、乱暴なのね。でも、私は貴方が好きよ」
「おしゃべりの多い口だな」
 青年が何度「黙れ」と言っても、少女が黙ることはなかった。
 そして、青年は何の因果か少女を家へと連れ帰った。

 それが、始まりだった。