標本屋 - 死神のお客サマ/Sample

 薄暗い店内。蛍光灯の明かりはちかちかと明滅し、明かりとしての仕事を放棄しつつあった。店内には無数の棚があり、奥へ差し込もうとする光を邪魔する。棚には彼の作品が並べられている。蜂、蛙や猿、人間の目玉や脳髄など不気味な標本が置かれている。棚にある作品全てが、彼の作品であり、その一部でしかない。もっと多くのものを彼は作ったが、あまりに多く作りすぎたため飾ることができないほどになっていた。
 彼の名前は標本屋。ふけまみれのぼさぼさ頭にほつれた白衣を着た男。牛乳瓶の底のように分厚いレンズの眼鏡をかけ、やや猫背気味の長身で口に煙草をくわえていた。
 足音が標本屋の耳に入ってくると、彼は煙草を床に捨てるとサンダルで火を踏み消した。
「ヤァ。久しぶりダナ、標本屋」
 棚と棚の隙間から顔を出したのは奇妙な風貌の男だった。異様に長く、細い手足。それは真っ黒で、怪物のように鋭い大きな爪を持つ。無造作にセットされた頭は前髪が鼻下まであるため、瞳を確認することができない。化け物のような容姿をした男は裂けた口元を歪ませて笑う。
「久しぶりだな、死神」
 死神と呼ばれた男は笑った。身にまとう草臥れたスーツについた埃を払う。標本屋は、彼のために椅子を用意した。椅子、と言ってもぼろぼろのパイプ椅子だ。
「思い出、お茶を」
「はい、標本屋」
 店の奥で隠れるように息を潜めていた少女が、お茶の用意をする。慣れた手つきでガスバーナーに火をつけ、水の入れたビーカーを温める。そこにティーバックを乱雑に入れる。
 思い出はとても美しい少女だ。美少女、と言っても過言ではないほどの美貌を持っているが、その表情は無表情で瞳からは生気が感じられない。フリルのついた服を着ているせいで人形のように感じられた。だが、その姿に死神はどこか違和感を覚えた。注意深く見ても、その正体が何かは分からないままだった。
「そんなに思い出を見るな。オレの可愛い作品だから見られるのは嬉しいが、そんなに見られると照れるだろう」
 茶化す台詞を言った後で、標本屋は死神を店の奥に案内した。椅子を用意し、そこに死神が座る。先程の言葉もあり、死神は不満げな顔をしていた。標本屋は気にしていないかのような顔をして、思い出が運んできたお茶を机に並べる。死神が足を組み、腕を組むと標本屋は笑う。思い出は後ろに下がり、置物のようにパイプ椅子に座るとゼンマイが切れた玩具のように動かなくなった。息をしているのかさえ疑わしいその姿に、死神は目を細めた。
「嗚呼、茶菓子もあるぞ」
 そう言って、標本屋は机の引き出しから茶菓子を出す。包装紙に包まれたクッキーに、死神は手を伸ばした。だが、書かれている賞味期限を見ると四年前のものだった。こんなもの食えるか、とクッキーを入っていた容器に戻す。「いらないのか?」と標本屋が言う。食べられないだろう、と言おうとした死神の目の前で、さも当然のように標本屋はクッキーを頬張っていた。それを見て死神は呆れてため息が出た。

標本屋 - マンホール少年/Sample

 ――僕のような出来損ないには、この世界は生きづらい。
 息をするのも難しい。上手に泳ぐのも難しい。下手でもいいから泳げと言われるけれど、それじゃあ駄目なんだ。それだと、何一つ解決しない。解決しなければ意味がない。
 暗い、電気のついていない部屋の隅で僕は膝を抱える。明かりさえ眩しいと感じるようになってしまった。部屋の外は大雨で、雨粒が窓を激しく叩く。まるで、僕に出て来いと言っているようだ。責め立てられても、僕は決して動かない。僕のような陰気に満ちた場所でしか生きられない人間は、外に出てはいけないんだ。
「ギター……」
 ふと部屋を見渡すと、壊されたギターが目に留まる。どうして壊されてしまったんだっけ。思い出したくない。僕はただ、歌いたかっただけなのに。どうしてあんな目に遭わなければならなかったのだろう。
 誰かが部屋の扉を叩いた。そこはもう、扉としての役割を放棄している。ただの、壁だ。二度と開かないように、何重にもテープを貼った。誰にも入ってきて欲しくない。ここだけでいい、僕の世界は。
「アイモ変わらず、ダネ」
 まただ。最近よく、奇妙な人を見る。誰も侵入できないはずなのに、『彼』は勝手に入ってくる。僕にしか見えていない幻想なのかもしれない。けれどそれを確かめる術はない。
 『彼』は化け物のような姿をしている。ボサボサの頭に裂けた口。爪の鋭い手。人には見えないその姿。スーツを着ているが、『彼』は人ではない。今日の『彼』は、肩に黒猫を乗せていた。よく見ると、猫の尻尾は二つに分かれていた。
「……ねこ」
「ああ、そうだよ」と言って、『彼』は黒猫の喉を撫でた。黒猫は気持ちよさそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。
 『彼』は来るたび、僕に切符を渡そうとする。僕を外に、世界の外側に行けと言うのか。だから僕は切符を受け取らない。今日も断り続ける。僕にはこの、閉じた世界が丁度いいんだ。
「扉、叩かれているヨ」
「知ってる。けど、聞こえない」
 聞こえないふりをしているだけだ。聞きたくないのが本音だが、この耳は聞きたいことも聞きたくないことも隔てなく入れてしまう。僕自身ではどうすることもできない。
「出ないノカ?」
「出ないよ」
 僕の世界は、ここだ。部屋の外は僕の世界じゃない。
「呼んでイルヨ」
僕は「気のせいだよ」と答えた。金切り声が外から聞こえるのも、全部気のせいだよ。鳥のさえずりだよ。そうに決まってる。母さんの声なんかじゃない。違うものだ。
「いいノカイ?」
 何が、と口から出そうになった言葉が喉に引っかかる。漏れてしまいそうだから、口を閉ざす。仕方ないことだから。そう自分に言い聞かせるように心の中で復唱する。
「きっかけハ何ダッタ?」
「そんなもの、忘れたよ」
 嘘。本当はよく覚えている。あれは今日みたいな雨の日だった。クラスの悪戯好きの子が、悪戯で僕の鞄の中に友達の財布を入れた。小さな悪戯のつもりだったのだろう。でも、そうはならなかった。――僕は糾弾された。僕が無実だと知っているのに、彼は口を閉ざした。大事になるとは思っていなかったのだろう。事実を話してくれなかった。彼の悪戯を見ていた他のクラスメイトたちも、だ。結果、僕はありもしない罪で誹謗中傷を受けた。誰も、僕の話を聞いてくれなかった。実の両親でさえも。
「ギター、どうして壊れたんだっけ」
「違うヨ。壊された、ダロ?」
 そう、壊されたんだ。世界に閉じこもって、歌ばかり歌っていた。それさえできればよかった。ギターを抱えていたら毎日飽きることはなかった。なのに、父さんはそれを許してはくれなかった。話を聞いてくれない人なんか知らない、そう思って、父さんの言葉を聞かずに過ごした。その態度が癪に障ったのか、父さんはこの世界に土足で踏み入って僕の宝物を壊した。
「生きるノカ?」
「どうなっても構わない。歌を歌えるのなら」
 壊れてしまったギターを直す術はない。でも、歌を歌えるのならどうなってもいい。ギターが直るなら、歌が歌えるのなら。僕はただ、歌いたいだけなのに。
「このままジャ、死ぬヨ」
 知ってるよ。そんなことくらい。もう何日も食べてないから。部屋に常備している水も、もう飲み干してしまった。このままだと『彼』の言う通り僕は死んでしまう。
「歌ヲ歌いたいナラ、いい所ガあるヨ」