青に落ちる


 目を閉じれば、蝉の合唱に紛れて苦痛に満ちた声が聞こえる。ぼくに憑りついて離れない声や手が、日常の陰からぼくを誘う。こっちへおいで。僕たちのところに。伸ばされた手はぼくの体に絡み付いて離れない。手は重くのしかかり、やがてぼくを彼らの世界へ引きずり込む気なのだろう。肌が焦げていくかのような日差しから逃げることもできず、さざ波を見つめる。睨みつけても、彼らは何の反応も示さない。ぎらぎらと光を受けて煌めき、揺れる青。水平線は空と混ざり合い、境界が曖昧になっていた。聞きたくもない声が、波の音が、思い出したくない過去を呼び起こす。忘れないで。忘れるなんて許さない。そう言いたげに。

「……あれは、事故だ」

 だから、ぼくには関係ない。どうしてぼくが苦しまなければならないのか。じわりと汗が首筋に滲み、背筋を伝う。額に溜まる汗を袖で拭う。防波堤の上に座り、足を投げ出して座れば下は海。落ちたらきっと、彼らは一斉に動きだし、水底にぼくを縫い付ける。早くこっちへおいで。みんなそろっていたほうがいいからさあ。声が聞こえる。

「どうかしたの?」

 突然、海のほうから声がした。誰だろうと視線を向けると、見覚えのない女の子がいた。海で染めたような長い髪が水面に揺れる。空を写し取った瞳がぼくに向けられる。肩紐のない水着を着ていた。腰から下は水が淀んでいて見えなかった。小さな漁港で、子どもも数えるほどしかいない村なのに、彼女はどこから来た子なのだろう。

「ねぇ、どうかしたの?」

 好奇心を宿した目がぼくを見つめる。純粋な、何も知らない真白な表情を向けられる。

「別に、どうもしないさ」

 吐き捨てるように言う。どうもしないわけがない。村のみんなはぼくのことを腫物のように扱い、声をかけてくれなくなった。疫病神扱いされることもあった。そのたびにぼくの心は擦り切れていって、その傷口に彼らがナイフのような言葉で囁く。君のせいだから。君もこっちに来ていたら。疫病神扱いなんてされなかったのに。

「ねぇ、暑いから泳ごうよ」

 彼女が言ってきた。ぼくに手を伸ばす。彼女の背後から、ぼくに伸びる手がある。

「無理だよ」
「泳げないの?」

 彼女が首を傾げる。浜の子どもで泳げないなんて、ありえないことだ。

「泳がないんだよ。ただそれだけさ」

 立ち上がり、じゃあね、と告げて逃げるようにその場から立ち去る。彼女の声が背中に刺さり、漂う潮の香りがぼくを責めたてる。逃げるんだ。また逃げるんだ。うるさい、と吐き捨てる。纏わりついた手のせいで、体が酷く重い。少しでも解放されるために、早く横になりたかった。住宅の合間を縫うように作られた小道を進み、そそくさと自宅に入る。扉を開け、振り返る。蝉の声に混じり、苦痛に満ちた声に紛れ、その中に綺麗な歌声を聞いた気がした。


 *


 見たくもない青は、ぼくの心をすり減らしていく。水面を見れば、奴らの顔が見える気がして目をそらす。紺色のアスファルトを見つめて歩く。そんなことをしても、彼らの声は鳴り止まない。背後にある太陽から感じる熱気に目が眩む。

「……ねぇ」

 聞き覚えのある声が海のほうからした。無視して歩けば、何度もぼくを呼ぶ声がする。ため息をつき、防波堤から海を覗き込む。嬉しそうな顔をして、ぼくに両手を伸ばす少女がいた。昨日会った時と何も変わらない、青い彼女が。

「何?」

 棘のある声で言っても、彼女は無邪気に笑う。

「おいでよ」

 泳ごうと言う彼女。その背後に、ぼくが海に入るのを今か今かと待ち構えて嬉しそうに歪んだ顔が蠢いていた。思わず一歩後ずさる。彼女はなおも無邪気に笑った。

「ほら」

 山々を駆け抜けて吹いてきた風がぼくの背後を通り過ぎていく。いっておいで。背中を押してなんて頼んでいないのに、ゆっくりと目の前に海が広がっていくのが見えた。そこには行きたくない。目を堅く閉じ、歓喜に咽ぶ声から逃れようと耳を塞ぐ。声は、ぼくの皮膚から体の中に入り込み、頭の中で言う。来てくれたんだね!
 体に纏わりつく水と手。重い体でもがく。誰か助けて。このままじゃあ、彼らの仲間になってしまう。手を伸ばす。すると、誰かがぼくの手を掴み、水面まで強い力で引き上げた。絡み付いた手がその力に負けて離れていく。顔を出し、咳込むと喉の痛みに眉を寄せ、肺一杯に空気を吸う。ひゅうひゅうと喉が鳴る。

「しっかりして」

 優しい声がした。ぼくの背をさすってくれる優しい手。閉ざしていた目を開けると、心配そうな顔でぼくを見つめる彼女がいた。濡れた青が光に反射していた。呆然としているぼくの足首を手が掴む。彼らは、まだ諦めていないようだった。

「……この人はダメ」

 先程までとは違い、低い声で彼女がつぶやいた。その直後、手が離れていった。ずっと聞こえていた声に動揺が走る。どうしてダメなの? ずるいよ。僕たちも一緒にいたいのに。

「ダメ」

 子どもみたいな声で言うと、彼らの声がぴたりと止んだ。目を見開き、彼女を見ると月光のような笑みを浮かべていた。それと同時に、背筋に寒気が走る。

「きみは、誰だ?」

 絞り出したか細い声でそう言うと、彼女は花が咲いたような笑みを浮かべた。

「わたしは……あお」
「アオ?」
「そうよ」

 溺れそうなぼくの体を支えて、彼女は泳ぎだした。自然とぼくの体もそれについていく。

「大丈夫よ。あの時みたいに溺れたりなんてさせないから」

 アオが言う。彼女は、どうして知っているのだろう。

「あれは異常な潮の流れのせいで、あなたのせいじゃない。彼らがあなたを恨むのはお門違いなんだから」

 恨んでなんかいないよ。ただ寂しいだけなんだ。みんな一緒だと平気だから。頭の中で声が響いた。懇願するように声がする。

「大丈夫。わたしは絶対に溺れないから」

 ぼくの手を取り、アオは硬く手を握った。そして、ぼくの腰にそえていた手を離し、両手を繋ぎあう。離さないように。ぼくにはアオの手が唯一の命綱に見えた。

「海で溺れても、わたしがいるからいつでも助けてあげる」

 余程泳ぎに自信があるのだろうか。じっと彼女を見つめると、困ったように笑った。水面が揺らめき、太陽のぎらぎらとした日差しを反射させる。冷たい水に浸かっていると、暑さなど忘れてしまう。体の芯から冷えて行って、いずれ凍えてしまうのではないだろうか。

「きみは」

 無邪気に笑う彼女が目線を下に向けた。その視線を追いかけ、ぼくは目を見開いた。腰から下は鱗が生え、ひれのある魚のような体だった。波の音と鳶の声がするだけの世界に、――人魚姫、とぼくは音を落とす。そうだよ、と静寂を破る音がした。

「わたしは、海の国のお姫様なの」

 アオが泳ぎに自信がある理由は、とても簡単なことだったのか。頭は混乱して血が沸騰しそうだった。目の前のアオが楽しそうにぼくの手を引いて水をかく。

「大丈夫だよ、わたしが守るから」

 掻き消すかのように、アオの声がぼくの中に入り込む。さざ波のように心地よいその声に、耳を傾けた。


 *


 俺たちは親友だからな、と言い合った少年が必死に手を伸ばしていた。ぼくも手を伸ばそうとするけれど、体は流れで遠ざかっていく。皆がぼくのほうへ行こうとするけれど、引きずり込まれるように溺れ、懸命に息をしようと水面に顔を出す。餌を求める鯉のような姿を、ただ見つめていた。――どうしてお前だけ。縋る視線がそう言っていた。皆の目がぼくに向けられる。闇を写し取った瞳に取り込まれるぼくの姿。唇が動く。世界から、音が消えた。
 どうしてお前だけ。
 体中を冷たいものが駆け抜ける。金縛りにあったかのように動けなくなる。口を開け、短く息を吐く。腕を、誰かが掴んだ。水の中なのに、雪のような冷たさを持つそれに、恐る恐る目を向ける。揺らめく髪。青白い肌。薄く開いた唇から覗く闇。真ん丸の瞳。ぼくを見ると、それはにぃ、と笑った。
 息を呑む。視線を外すことができない。それは両手でぼくの腕を掴んだ。笑みを浮かべたまま、海坊主みたいに頭だけ水から抜け出し、おいでよ、とぼくに言う。いやだ、と口を動かすが音にならなかった。

「いけないよ」

 凛とした、声がした。ひ、と小さな悲鳴が聞こえた。

「この人はダメ」

 背後から抱きしめられた。暖かな光が背中から全身に伝わり、凝り固まった体が解されていく。そのぬくもりに目を閉じる。首筋に感じる吐息。小さな笑みが零れた。

「この人には、手を出しちゃだめ」


 目を開けると、窓から差し込む光の眩しさから顔をそらす。体を横に向け、息を吐く。嫌な夢だった。いつもなら、両手を掴まれて終わるはずなのに。だが、久しぶりの平穏な目覚めだった。布団から抜け出し、外に目を向ける。額の汗を袖で拭い、窓を開けた。一陣の風がこもっていた暑さを外へ追いやってくれる。風に紛れて運ばれてくる蝉の声と波の音。乾いた唇を舐めると、かすかに塩の味がした。胸いっぱいに息を吸えば、体に染み込む海の匂い。息を吐く。
 海へ行こう。そこで今日も、アオはぼくを待っているだろう。
 朝食を済ませ、着替えをし、外に出る準備を整えて家を出た。自然と足取りは軽いものになっていた。海に出る階段を下りていると、ふと、ひまわりが植わっているのが目に留まった。道の脇にある、小さな花畑。誰が世話しているわけでもなく、小学生が空地に種を蒔いて結果、できたものだ。勝手に取っていっても大丈夫だろうか。辺りを見渡し、人影がないことを確認してひとつ、ひまわりを摘んだ。何事もなかった。そう装い、足早にその場から立ち去る。海へ急がなければ。アオの待つ場所へ。
 昨日アオに会った場所へ向かう。口元が緩む。

「……アオ」

 海に向かって声をかけると、水面がはねる音が聞こえてきた。

「いるんだな」
「うん」

 今度はちゃんと返事がした。コンクリートの防波堤に上り、海を見下ろす。待ってた、とアオが両手を広げ、ぼくを出迎える。アオ、とぼくはアオにひまわりを見せた。アオは目を丸くして、黄色を見つめる。ひまわりって花だよ。言えば、アオが笑顔になった。きらきらと輝いて見えるアオに目が眩む。彼女の背後に浮かんでは消えていく手や顔が気になった。大丈夫だよ、と声が頭の中でした。風が吹き、ひまわりの香りが鼻腔をくすぐる。照り返す太陽に目を細め、青い海に笑みが零れた。

「一緒に泳ごうよ」

 アオが手を伸ばす。その手を掴もうと、ぼくも手を伸ばした。
 ひまわりが青に落ちた。